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自己言及のパラドクス

ではないけれど、自己を他者に伝える、という行為にどれだけの意味があるだろう。


 表層上のコミュニケートの為に、「自分はこういう人間です」と発表する機会がある。
新しいコミュニティ(学校のクラス、地域、会社、或いは私的交流など)に参加する時。
或いは特定の人物と交流を深める時。愛を交わすとき。

 前提として「自分が自分の事を理解している」「相手がある程度自分の事を知りたがっている」という部分が必要だが、それでも決してその機会は少なくない。
ただ、その行為自体に何かの意味はあるのだろうか?
相手はその情報を受けて、何を判断し、どうしたいのだろうか?


 そもそも、自己を解釈し他人に説明するという行為は、相手、また自分にとっても根源的に「それが真か偽か判断出来ない」という欠陥を持っている。
この場合の「自分にとっても」というのは、相手に対して嘘偽りを伝える、という単純なケースだけではなく、そもそも持って自己判断が正確か、という個人の能力限界に起因する物もあるので、結果的に単純な欠陥をより複雑にする。

 その為人は、他者に自己を伝える際に、しばしば「主観的な客観」を相手に手渡す。

 つまり
「友人Aは私のことをXだと言った」「街で声をかけられた人にXと言われた」「親はXと言っていた」
という、他人目線での自己を。

「客観的に」ではなく「主観的な客観」と矛盾めいた言い方をしたのは、その客観自体に既に主観性が入っている(情報の取捨選択、フィルタリングがされた状態)からであり、基本的にはその「客観的な他者の判断」が「自己判断」の補強になっている場合に多用されると感じるからである。

 自分の判断とは180度違う否定的な「客観的な意見」を提示された場合、人は往々にしてそれに反発する。
つまり言い方も「友人AにX'と言われたんだけど、違うよね?」という形になる。
或いはそもそもX'と言われた事自体が表面に出てこない。
その時点で上記で述べている「情報のフィルタリング」が行なわれている事は明白であり、どういう方向性(自分の意に沿っている or いない)の意見であれ、「客観的にみると私はこうらしい」というのは成り立たない。

 例外的に「盲信している相手からの客観的判断」を全て飲む、という事もあるだろうが、それは単純に比較的面倒で、嫌なことも多い「自己との対面」から逃避しているだけの愚鈍に過ぎない。
主体性を相手に渡してしまった時点で、「自己判断」は意味を成さなくなり、己はただ形骸化された情報の残滓でしかなくなってしまうのだが、既に主体性が本人にない以上、それにすら気付かない。

 上で「自己との対面」を面倒で嫌なことも多い、と述べたけれど、一体それは何故なのか。
まず、面倒な点。
先の根源的な欠陥から、自己を自己のみで判断する事は出来ない。
余程ストイックな人間で無い限り、どうしてもそこには甘さや理想、或いは卑下が混じり、絶対評価を下すことが出来ない。
では相対評価はどうか。
自分は「A君より頭が悪い」「B君より運動は出来る」「C君より明るい」。
一見簡単そうに見えるが、そもそもの判断基準が自己が属する小規模なコミュニティでしかない。
頭の良いA君が、実は他のクラスでは最底辺なのかもしれない。
それを考えると結局の所、自己の判断基準を他者に求める事自体も、所属するコミュニティの相対的変化に巻き込まれ常に変動してしまう事になる。それは自己評価と呼べるのだろうか。

 次に嫌なこと。
これは単純に、自分が定まらない事への不安感が常に付きまとうことに収斂される。
自己との対面を続けるうちに、自分での判断、他者との相対判断、或いは他者からの客観的意見などに自分がいかに振り回されているか気づくと思われる。
結局の所どの判断も基準が曖昧なままなので、正確に自分が安定する事はない。
けれど人は安定を求める。そしてそれは報われない。
嫌な事、と呼ばないのであれば、悲しい事である、ように思う。


 さて、長々と述べた所で、元の「自己を他者に伝える、という行為にどれだけの意味があるのか」という点に立ち返る。

 実の所、これだけ「自己判断」を長々と否定しながらも、実は意味は「ある」と言える。
自分が主観的に観測した自分、他人から客観的に観測された自分。
それを特定の相手に伝える事で、「相手が観測してきた自分」というフィードバックを受けることが出来る。
逆に自分には「自分が観測してきた相手」「相手が主観的に観測した相手」そして「他人が客観的に観測した相手」という情報がある。

 相手に情報を提示する。
その相手が情報を咀嚼する。
咀嚼した情報を自分にフィードバックする。
そして「相手」がどのような性質かを相対的に判断して、その咀嚼の仕方、フィードバックの仕方からその情報をどう判断したのかを解釈する。

 文章にすると難儀に聞こえるが、何のことは無く「通常の会話」である。

 自分の判断が間違っていようと、或いは客観的な他人の意見がどうであろうと、その判断母数を増やす事で収斂点を推測する事は出来る。
推測した収斂点を更にフィードバックしていくことで、更にその精度を上げることが出来る。

 結局の所、
・表層上のコミュニケートで常に自己の位置を安定させる。
・情報を伝えてきた相手の位置を推し量る。
という行為が「自己を他者に伝える、という行為」であり、あくまで自分の為の物なのであると思う。

その情報を相手に伝えた時点で、既にその情報は自分の主観を離れ、相手の主観となる。
その情報を相手がどう受け取り、どう咀嚼するかは自己の関与出来る所ではない。
だとすれば、結局「咀嚼され、フィードバックされた情報」でしか「自己を伝えた」というレスポンスは受け取ることが出来ず、その結果は上記の2点なのである。


長々と述べたこの文章自体、実の所全く意味が無い。
理論も破綻しているし、そもそも推敲していない最低の文章である。
元々の論理構成さえ考えていない。


じゃあ何が言いたいのか、と言えば結局の所、
「ちょっと小難しい事言いたがったり(結局慣れてないから言えないけど)、意味の分からない事を述べながら相手を煙に巻く、というのが自分の本質であると考えている」
という点と
「ここまで本当に読んだ奴は単なる馬鹿か暇人か文章を理解せずとも読める人のウチのどれかだ」
という点だけだったりする。

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2009年04月22日 10:42に投稿されたエントリーのページです。

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